地方のみの責任論

13日の北海道新聞の記事です。

夕張破たんは「市の責任」 首相が強調

 衆院予算委員会は十三日、二○○七年度予算案の基本的質疑を続行した。安倍晋三首相は、四月に財政再建団体入りする夕張市について「地方分権においては地方にも責任をもってもらい、財政規律を考えてもらうのは当然だ」と述べ、財政破たんは一義的に夕張市の責任と強調した。

 菅義偉総務相も「夕張市の破たんは自己責任だ。赤字をみえなくするような不適切な会計処理の積み重ねが、破たんを招いた」と明言した。

 民主党の荒井聡氏が、自治体の借金である地方債の発行を許可し、補助事業を推進した国の責任をただしたのに答えた。

 首相は、夕張市の財政破たんの原因となった第三セクターの運営についても「果たして本当にうまくいくのか、自分たちで考える必要がある」と指摘。

 その上で「地域の再生に向けて必要な支援をする。お年寄りや子どもには特別の配慮をしないといけない」と述べ、政府として一定水準の行政サービスの維持に努める考えを重ねて示した。

 確かに地方自治の本旨から言えば、安倍総理や菅総務相の答弁はもっともなものです。地方の住民が自分達の自治体のあり方を決める。それは当然のことです。

 では、国は、本当に今まで夕張市の財政状況を知りながらそれを見逃していたり、夕張市の財政規模を超えた自治体運営を強要したり、補てん策を示して、そういった案を勧めたりはしなかったのでしょうか。おそらくそういった事実があったとしても、今の国の姿勢なら「最終的には地元が決めたことだから」で終わらせるのでしょう。

 今でこそ地方自治や自治体運営について「地方の責任」が大声で叫ばれていますが、行政を経験した立場から言えば、夕張の炭鉱閉山のあの頃、国の指導は絶対で、よほどの事がなければ地方が異論を差し挟む余地など無かったように記憶しています。

 だから地方としては仕方が無かったのだと言うつもりはないのですが、当時の状況や経過を全く無視した中で、今の基準だけを当てはめてすべて「地方の責任」で片付け、その上で「仕方がないから高齢者と子どもの面倒だけ見るよ」と言うのは、あんまりではないかと言うのが率直な感想です。

 「美しい国」とは過去の経過や反省を認識せず、今の事実からのみ思い描く理想の未来だけを追って挑戦し続けるそういった国のことなのでしょうか。

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